突然の引退を取り上げた番組をいくつか見たが、制作の基本路線は、引退でよかった、朝青龍が自ら蒔いた種というものである。「自ら悪役に徹してしまって、軌道修正のチャンスがあったにもかかわらず、修正しなかった。一人横綱で強くなるにつれ、驕って尊大になった」
北の富士さんは「周りも注意してきたと思いますよ。だけど、本人が聞く耳をもたなかった、それに尽きますね」
自分の例も引き出して、「横綱の品格とは常識の範囲をおさえておくということだ」という。
こういう発言を聞いていると、一瞬「その通りだな」と思う。そして、朝青龍ファンを「相撲を格闘技と混同している新しいファン層」という風に解釈されてしまう。
だけど、私は格闘技のファンでもなんでもなく、新しいファンでもない。だけど、朝青龍関を尊敬しているし、誇りにし、いとおしいと思っている。
それは、北の富士さんと朝青龍との決定的な違い。彼がモンゴルという日本よりも後進国出身の人であり、新横綱の頃には土俵入りで、「モンゴルに帰れ」と野次られた横綱だということを過小評価できないからだ。
品格を持て、あるいは日本人力士の鑑になれ、というならば、こうした朝青龍への罵倒や攻撃からどのようにして彼を守ろうとしたか、彼の心の傷をどう受け止めたかを示してほしい。そうしたことを抜きに「聞く耳をもたなかった」はないだろうと思う。
自分を守ってくれない人の言うことを、どうして聞く気持ちになるだろうか。
かつて、横綱・曙が大阪のクラブで大暴れしたことがある。そのときにも実は曙は協会の親方と同席していて、その親方から「だからオレはお前たち外人は大嫌いなんだ」と言われて逆上したそうだ。(曙さんの新著「人生ホ・オポノポノ」より)
そういう外国人差別があるという現実からどのように外国人力士を守ろうとしてきたのか、協会関係者には示してほしい。
当時の気分をよく示しているのが作家・村松友視さんの以下のエッセーだ。村松さんといえば「私、プロレスの味方です」で目の肥えた格闘ファンであることを宣した作家である。
村松さんの2004年のエッセー「逆さ眼鏡」より
「朝青龍の眼飛ばし」
(前半省略)
大相撲ファンの中の日本人意識が、反朝青龍を生んでいる傾向に、私は違和感を抱いた。朝青龍はいっときのつなぎ役で……というところまでは同じだが、次に彼らは日本人横綱待望論を叫び始める。こんな空気が、朝青龍の土俵入りの最中に、「モンゴルへ帰れ!」などという野次を誘発させたのだろう。あれを聞いたとき、私は何だか情なくなった。
と同時に、朝青龍への思いが身の内にわいてくるのを感じた。こんな雰囲気の中で、堂々と自分のペースを守り抜く力の源は、いったいどこにあるのだろうか。私は、これまでとはちがう目で、朝青龍の土俵における一挙手一投足を凝視した。
その乱暴ともいえる相撲ぶりは、むしろ朝青龍の魅力と言ってよいだろう。あの小兵で横綱を張るには、あれくらいの気迫がなければなるまい。それに、あらゆる局面で積極的に攻める力感が、私の目には比類ないエネルギーと映った。
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貴乃花親方が教習所で「ノーモア朝青龍」の教育方針を掲げるという。へえ、と思ってしまう。
あなたは、異国でその競技のトップで頑張ろうとしたときに、「自国へ帰れ」といわれたときの悲しみをどう克服するか、教えられるのですか? 自国への誇りを持って、睨み返すことのどこが悪いのか?
朝青龍の横綱としての出発が一人横綱であったこと、そして「モンゴルへ帰れ」という野次に彩られていたこと、そういう影がこうも無視されていることがどうしても納得できない。


by ふじこ丸
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