青土社「現代思想11月号」が大相撲を特集している。とても読み応えがある布陣であり、かれこれもう20日間ほど読み続けているがまだ発見がある。掲載されているのは、討議(鼎談)も含めると15本ものエッセイと評論。特集のもくじを紹介しよう。
特集 大相撲
チカラビトは生きつづける 宮本徳蔵(作家)
受け継ぐもの・変わるもの 乃南アサ(作家)
「国技」と称され続けるために デーモン閣下(タレント)
大相撲のゆくえ―近代スポーツを超えて―
稲垣正浩(スポーツ史) 今福龍太(文化人類学) 西谷修(フランス思想)
女、三十にしていかに相撲にハマるか 久保田智子(アナウンサー)
相撲の知覚 佐々木正人(生態心理学)
ヒールを排除するこの国の世相 森達也(映画監督)
大相撲における真理とは何か 澤野雅樹(社会思想史)
興行としての大相撲 松原隆一郎(経済学)
民衆史としての大相撲 高津勝(スポーツ史)
越境性の受容 亀井好恵(民俗学)
七月の身体 井上邦子(スポーツ文化論)
帝国日本の相撲 胎中千鶴(歴史学)
力士のシンボリズム 寒川恒夫(スポーツ人類学)
相撲の歴史を捉え直す リー・トンプソン(社会学)
久保田アナや森監督のエッセイは気楽に読めるが、女相撲の歴史を紹介した亀井好恵の「越境性の受容」にしても、戦前の日本帝国主義による植民地支配(外地)と大相撲が培った相撲道の変遷を追った胎中千鶴の「帝国日本の相撲」にしても、読みこなすには相当の集中力がいる。
だが、それぞれに披瀝されている知見はゆたかだ。
断片で紹介するのは少し不本意でもあるけれど、松原隆一郎氏の白鵬、朝青龍評がまた新しくなっていたので紹介しておく。
松原氏はサッカー騒動の後、宝島社のムックで朝青龍を大相撲の救世主として論じていた。そのときの文脈は、小錦、曙、武蔵丸といった大型力士に席巻されそうな大相撲を日本人力士のサイズに戻したというものだった。だが、今回、彼はその言説を微妙に変えている。格闘技として大相撲は大型力士の時代から脱していないというのだ。むしろ、レヴェルの著しい向上が固定化してしまったというか、大相撲のレヴェルはもの凄いところに行っていると捉えている。
その証左として松原氏は、世界大相撲選手権(1994年)でのモンゴル相撲の力士、バットエルデンの活躍を書く。体重300キロの黒人力士、ヤーブローを投げつけて勝利を手にしたバットエルデンの、当時の体重は125キロ。その姿を目の当たりにした松原氏は、「技よりも何よりも、身体の強さの違い」を痛感したという。引用する。
朝青龍や白鵬は、一見すると日本人に近い体型をしています。それが理由で多くの人は、大相撲は以前に近い姿に戻った、ハワイ出身の大型力士たちに席巻されずに済んだと思っているかもしれませんが、根本的なところでは変わってしまったままです。朝青龍の態度が悪いといっても、他の力士たちとは次元の異なるところにいた以上、稽古する必要がない。そこにたまたま真面目な白鵬が上がってきたから、彼は勝てなくなってしまっただけでしょう。ですから、今度は白鵬には誰も勝てないのではないでしょうか。朝青龍との名勝負は最後に二番ありましたが、特に一度目(本割、寄り切りで白鵬の勝ち)は恐るべきもので、普通の日本人力士には触れることもできないレヴェルです。過去のどんな取り組みも次元が違うと言わざるを得ない。それほどまでに、あの二人の闘いは驚異的で、スポーツ史に残るものだったと思います。正直、二人がなにをやっているのかが全然わからないのですから。もの凄い反射神経と力、そしてバランスが拮抗し、かつ混在していた。曙以降の外国人力士たちの存在は、スポーツ性においては大相撲を全く異次元の世界に引き上げてしまった。それは素直に褒めなければ、何を言っても始まらない。
松原氏の論が秀逸なところは他にもある。格闘技の興行として700人もの力士を養っている点で、大相撲は世界を見回してもモンスター級に成功しているというのだ。日本で大相撲以外のすべての格闘技を集計しても、大相撲の十分の一も集客していないのが現実だと指摘する。
デーモン閣下の「国技と称され続けるために」はかれの改革案の集大成。穏健な相撲ファンとしては至極、まっとうといえる内容といえるのだが、今回、彼が思い切って踏み込んだのは横綱の国籍についてだ。「横綱は日本国籍を有するもの、または日本国籍を取る予定のものに限る」という改革案の提示には、市民的な感覚からすると抵抗のある人もいるかもしれない。
だが、こうした大相撲の外国人力士への「差別の顕在化」は、すなわち大相撲のグローバリゼーションからの退却の明示ととらえると、朝青龍との決別以降の相撲界のゆくえとしては、必然ともいえる。
だいたい、大相撲のグローバリゼーションにはどこか帝国主義的なにおいがあるのだということも「帝国日本の相撲」で改めて認識できたことだ。
私の場合、琴欧州や把瑠都の取り組みにあまり興奮しないし、やはりモンゴル力士の相撲が楽しい。そのモンゴルで相撲が大きく変貌を遂げつつあるということを「七月の身体」からは学んだ。この七月の身体と朝日新聞社から発刊された『朝青龍 よく似た顔の異邦人』については、また、きちんと紹介していきたいと思う。
そして、一番の収穫は、稲垣正浩、今福龍太、西谷修が近代スポーツの限界という問題意識を共有しながら鼎談している「大相撲のゆくえ」だった。この鼎談で岩波の「世界2010年4月号」で稲垣氏、今福氏が「朝青龍はなぜ追放されたか」という対談をしていることも知った。二人は、競技性を追及する近代スポーツは人間の身体の徹底的な管理が可能という思想に基づいており、ドーピングやサイボーグ化は必然であってすでに袋小路に入っていると説く。
そして大相撲にはまだ伝統スポーツとしての芸能性や身体観が残っており、それは相撲が未来に生き残る可能性だという。が、その魅力をふんだんにもっていた朝青龍を協会が追放したことには強い憤りをもっている。
15本のうちほとんどで朝青龍は好意的な文脈で語られており、朝青龍には一切ふれていない「越境の受容」においても女相撲と観客の関係性の論述を通して、大相撲が天皇との関係で「国技」として欺瞞性をはらんでいった過程を明らかにすることで朝青龍を弁護しているような節がある。つまり、この特集はまるごとすべて朝青龍のオマージュとして構成されているといっていい。
さあ、みなさん!ちょっととっつきは悪いが(表紙は白鵬の横綱土俵入り)、「現代思想11月号」を買いに本屋へ走りましょう!



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「現代思想11月号」大相撲特…